STAFF STORY

スタッフストーリー

私たちボディプランナーも、パーフェクトラインで変わりたいを
実現した女性の一人。皆さんの”変化のための行動”に少しでも
役立てたらと思い、8名のストーリーをご紹介します。

~私が辿ってきた人生の「線」~

阿部寧々 <2017年入社>

■中学校も高校も、今はもう無くなってしまった

 
私は東北地方、宮城県石巻市の出身です。
太平洋の海に近い家に、母と兄と犬で住んでいました。
 
中学校は家のすぐ近くで、海が見えるところにありました。
 
小学校2年生の頃から中学校までずっと柔道をやっていて、黒帯になっていたほどです。
ただ、中2の頃がピークで、それ以降は試合にも負け続けてしまい壁にぶつかりました。
ずっと続けてきた柔道だったので、「辞める勇気」がなかなか出なかったのですが、
悩んだ末に辞めることにしたのです。
 
そして、柔道を辞めてからは遊ぶようになりました。
昔から目立ちたがり屋だったので、3段シートのバイクに乗って爆音にまみれる日々。
中学3年では進路をどうするのか悩みましたが、高校受験をしたのは中学校の隣にある
海が見える女子高でした。そこを選んだ理由は、ただ単に近かったからです。
 
女子高にも受かって通うはずだったのですが、
事情があって高校では途中から定時制高校に通うことになりました。
 
なぜ定時制に通うことになったかと言うと、
通っていた中学校も、通うはずだった高校もすべて無くなってしまったからです。
 
 
あれは、中学校の卒業式の日のことです。
忘れもしない、2011年3月11日でした。
 
 

■家族全員が黒い濁流に流された「あの日」

 
午前中に卒業式があり、午後は友達の家で遊んでいました。
そして、2時46分になった時、大きな地震が来ました。
 
2日前にも地震があったのですが、比べものにならないほどの大きな地震でした。
「これはヤバい」ということで友達全員が家に帰ることになったのですが、
帰る途中、私の母親が車で迎えに来てくれました。
 
車に乗り込むと、飼っていた犬も乗っていました。
すぐに兄の学校に向かって兄も車に乗せたのですが、道路が大渋滞して動けません。
車が進むのを待ちながら助手席から外を眺めていると、黒い水が車の脇を流れていきます。
「海水がこんなところまで!」と驚いていると、みるみるうちにその量が増えていき、車は黒い海水で囲まれました。そしてついに車内にまで水が浸入してきて、肩の位置まで来てしまいました。
 
母親が「車の屋根に上がれ!」と叫ぶので、私は抱いていた犬をお兄ちゃんに預け、車の屋根によじのぼったのですが、車は波に押されてグルグルと回り、近くの電柱に「ガシャン!」と激突しました。その衝撃で私は屋根から放り出され、黒い濁流の中に落ちて溺れてしまったのです。
 
濁流に流されて視界を失いましたが、母親の泣き叫ぶ声が遠ざかっていくのだけは聞こえていました。そして溺れながらも無我夢中で手を伸ばすと、何かに掴まりました。
必死に目を開けてみると、それは知らない人の家の屋根でした。
そしてそのまま力一杯しがみついたのです。
 
徐々に水流は弱まっていきましたが、それでも肩の位置まで海水が覆っていたので、
私はずっと海に浸かった状態で屋根に掴まっていました。
気が付けば日も暮れてきて辺りも薄暗くなり、気温も低くなって雪も降ってきました。
“この世の終わり”のような光景に、私はボロボロと泣きながら、「ああ、私は今日、このまま死ぬんだな」と思うしかありませんでした。
 
すると近所の人たちが2階の窓から顔を出して声を掛けてくれました。
「頑張れおねえちゃん!」「手を離すなよ!」
そして少し海水が引いてきた頃に、近所の人が「姉ちゃん、こっちに来れるか!」と引き寄せてくださり、そのまま家で休ませてもらいました。
 
翌朝の5時くらいでしょうか。
その家の玄関から「すいません!」という声が響きました。母親の声でした。
「この辺で溺れた女の子がいるんですけど知りませんか?」と探してくれていたのです。
 
無事に母親にも再会し、私が溺れた後の話を聞きました。
母親も車の屋根に逃げたけれど落ちてしまい、津波に流された後に同じようにブロック塀に掴まってよじ登っていたそうです。

私と母が車から離れたことで車の後ろ側が浮いたので、お兄ちゃんと犬は車の中に残っていたそうですが、そのまま津波に流されていって車がたくさん流れ着いた場所で止まったのだとか。
ちょうどそこにパトカーも流されていて、お巡りさんが「兄ちゃん、こっちに掴まれ!」と手を差し伸べてくれたのだそうです。
 
母も兄も、私が溺れた姿を見ていましたし、辺りを探しても見つからないので
「寧々は死んだ」と思っていたようです。
私の命は諦めて家に帰っていくと、自宅がある団地も津波に襲われていたようです。3階の位置まで海水が届いていたようですが、自宅は5階だったので何とか無事のようでした。
 
 
私は柔道をやっていたお陰で指の力が人よりもあって、
屋根から手を離さずに助かりました。
 
それに、車の屋根から濁流に落ちた時も、道の端っこだったから良かったのです。
もし道の真ん中で落ちていたらどこにも掴まることができず、流され続けていたでしょう。
 
何かが少しでもズレていたら、
何かが少しでも欠けていたら、私は本当に死んでいたはずです。
 
 

■食料が無い環境でのサバイバル生活

 
津波に流されたことも大変でしたが、翌日からの生活も大変でした。
 
家の近くを3歩あるくと1体の死体が転がっているような環境でしたし、あれほどの大きな地震は日本でしばらく無かったせいもあってか、全く助けが来ませんでした。
 
ヘリコプターで小学校の校庭に物資提供が来ることもありましたが、数が足りないため、避難所の人が優先です。団地に住んでいた私たちは、なかなか食糧にありつけませんでした。
 
家にあったのは僅かなインスタントラーメンとスポーツドリンク。
石油ストーブはあったので、3時間歩いて山に湧水を汲みに行っては
ストーブで沸かしていました。
 
そして1日の食事は、家族3人で1つのインスタントラーメン。
それと、家族3人でコップ1杯のスポーツドリンクでした。
 
あまりにも食料が無いので、近所に転がる死体を避けながら食材を探し
食べられそうなものは拾って食べていました。まさにサバイバルです。
毎日目が覚めると、映画の中の世界なのではないかと思っていました。
 
現実の世界に戻ってきたのは2カ月ほど経ってから。
電気やガスがようやく復旧し、学校も再開することになったのです。
 
 
それから定時制高校を無事に卒業した私は、
水産加工会社に就職して事務員として働き始めました。
 
石巻は日本で一番大きい魚市場なのですが、
震災で多くの水産加工会社が無くなってしまいました。
 
その中でも立て直した会社がいくつかあり、私はそのうちの1社に事務員で入ったのですが、工場で魚をさばいたり、営業アシスタントの仕事をしたりと事務以外にも色々な仕事をこなしていきました。
 
働いている途中、無事に成人式も迎えることができました。
 

■水産加工会社からエステの会社へ

 
学生時代にはコンビニでアルバイトもしていましたが、
3年も働くと仕事にも慣れ、仕事に向き合う考え方も変わっていきました。
 
だから、水産加工会社でも“3年居たら変わるはずだ”と思い、3年は続けました。
はじめは嫌いだった魚もだんだん可愛く見えてきますし、
職場の人達もみんな大好きになりましたし、
やっぱり3年も居ると見えてくるものが違うな、と感じました。
 
そのままその会社で働き続けようかとも思ったのですが、いくつか思うところもありました。
まず、「今やるべき仕事ではないかも」ということ。

魚を切る仕事というのは40歳でも50歳でもできるはずで、
若い今だからこそできる仕事をやってみたい。
 
それと、石巻を離れて仙台へ出てみたい気持ちもありました。
親とは離れたくないので、通勤する限界の距離が仙台だったのです。
 
そして自分が「何に興味があるのか」をじっくりと考えてみたのですが、
社会人になってからずっと服とかオシャレとか美容に興味を持っていました。
そうか、美容だったら今やるべき仕事だし、女性としても一生使えるスキルが身につくはず。
そんな風に考えて、美容関係の仕事を探していきました。
 
仕事を探すうえでの条件がもう一つあって、
私は今まで「年下から学ぶ」ということがありませんでした。
柔道もバイトも水産加工会社も全部、年上の人から教わってきたのです。
だから、年下に教わるのは何かイヤだな、と思っていました。
 
すると、パーフェクトラインの仙台駅前店がオープニングスタッフを募集していました。
これはきっと年上の人に教えてもらえるはずだし、しかも日曜日が休み。
「こんないい条件、他にある?」と思って、すぐに応募しました。
 
 
そして無事に入社することになったのですが、入ってみると
「エステは難しい」ということに気づきました。
 
当たり前の話なのですが、エステは魚を裁くのとは訳が違います。
今までは体力勝負で何とかなってきましたが、お客様を相手にするのは
技術的にもコミュニケーション的にも難しい部分が多いなあ、と感じさせられました。
 

今まで、バイトにしても水産加工会社にしても、働く目的は「給料」のためでした。
ただ、神美が運営するパーフェクトラインで働いてみると、
考え方が変わっていく自分に気づきました。
 
「お客様のなりたい姿のために、お客様の満足のために、
必要な提案を必死で考えよう」と考えるようになっていきました。
 
そんななか、役職も与えていただいて責任も増え、今までに味わったことのない
プレッシャーを感じるようにもなりました。でも考えてみれば、中学校の柔道の時以来、
久しく「本気」のことをしていなかったのです。
仕事は本来、本気でやるものだなと反省させられました。
 
東京への出張も少しずつするようになってくると、「もうこっちで頑張ってみたら?」と
東京の店舗への異動を勧められたりもしました。
 
母1人の家庭ですから親と離れるのはすごく抵抗があったのですが、
それ以上に東京の店舗で働くことが楽しくて、「東京でもっと刺激を受けたい」と
思うようにもなっていき、結局「よし、東京に住もう」という決断をしました。
 
 

■一度死んだ私だから、もう悩むことはない

 
いま私は、都内の社宅に住まわせてもらいながら
東京の統轄店長として2店舗をみています。
 
統轄店長とはいえ、自分自身がプレイヤーとしてももっと結果を出さないといけません。
自らの説得力を増すためにも、自分がやってみせるのが一番です。
それに、管理職としての考え方も視点も足りませんから、
自分自身の課題はたくさんあると思っています。
 
統轄店長としての仕事は難しいし上手くいかないこともありますが、
大変なことも含めすべてが「楽しい」と思えます。
 

特に楽しいのは、田中社長と会う時です。
田中社長とは週に一回、会議で顔を合わせています。
その際に、店舗でやっていることに対してフィードバックをもらうのですが、
とても刺激を受けることが多いです。
 
最近も、「目標に対する執着心が無い」という指摘をもらいました。
言われてハッとしたのですが、確かに口では目標を語っているのに
行動が伴っていませんでした。口では何とでも言うことができますからね。
 
田中社長は、今まで出会ったことが無いタイプの人ですし、いつも喝を入れてもらって
自分が変わっていくのを感じます。いずれ社長のように、地位も見た目も金銭的にも、
何においてもカッコいい大人になりたいです。
 
そのためにすべきことは、「今」を頑張ることですね。
今を頑張れば、楽しい未来が待っている。そう思います。
 
自分自身の考えが変わっていったことは、たまに地元に帰って同級生と話をした時にも
感じるようになりました。いい意味で会話が噛み合わなくなったのです。
仕事の話をしていても視点が違うのをよく感じるようになりました。
 
私自身、これまでは「3年働けば考え方が変わる」と思っていましたが、
パーフェクトラインではもっと早く自分の考え方や視点が変わっていたようです。
田中社長に出会ってなかったら私も地元の同級生たちと同じような感じだったのかな
と思うと、少しゾッとします。
 

私には、震災の経験があります。
 
でも、そのお蔭で、変に悩むことがなくなりました。
学生時代に柔道のことや進路のことでものすごく悩んだり落ち込んだりしていたのが
今ではくだらなく思えます。
 
今は仕事で怒られることがあっても、指摘されることがあっても、
教えてくださっていることが嬉しくて「ありがとうございます!」と叫びたくなります。
 
 
私は1回死んでいるのです。
命があって生きているだけでありがたいです。
 
目の前の仕事を今、本気で頑張ることができるのは、生きているからこそ。
早くからそれに気付くことができるようになったのは、本当に良かったと思います。
 

東京に来た今でも、少し時間ができたら石巻の実家に帰るようにしています。
 
親孝行が目的ではあるのですが、母親も今はホームヘルパーの所長さんとして
働いているので、業態が似ているせいか仕事の話もたくさんできるようになりました。
母親から教わることも多くて、そんな日々を嬉しく感じています。
 
自分自身の仕事で分からないことを知るのも日々楽しいですし、
いま私は震災で失ってしまった「青春」を取り戻しているような気分で
毎日を過ごしています。
 
 
震災を生き抜くことができて、
この会社で働くことができて、私は本当に幸せです。
 
 

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